中二病棟

220731 大人になっても使うことのできる、技術の時間に作った逸品
190707 壊れかけのRadio
170604 我が家初のプリンター
130512 子供の成長記録を保存しよう
121202 カセットテープに引導を
121021 テレビゲームのない時代・2
120805 テレビゲームのない時代とは
111218 テレビゲームのない時代・1
110916 記録マニア
110727 理系人間の萌芽
110522 あきひとくん6さい
110410 手塚治虫への傾倒
110306 高校時代のクリエイター魂
110109 '80年代のパソコン少年



110109 '80年代のパソコン少年

 ゲームについてまとめているのと同様、少年時代の思い出についてもアーカイブ化したくなった。『かってに改蔵』でいうところの不発弾だが、青年が少年時代を恥ずかしく感じるのとは違い、おっさんになると、残すこと・公開することそのものに意味があるように思えてくるのだ。

パソコンアタッククラブの会員証

 地元SBSラジオで放送されていたパソコン関係のラジオ番組。提供は県内に数店あったパソコンショップ、メルバ…って北名古屋に一軒だけ残ってるのか?!
 会員になったくらいだからハガキを投稿している。というかここで思い出を一通り書いているな。繰り返しになるが、ニュースステーションの金曜チェックのようなネタ投稿をして読まれたことがある。その後、この番組で○○チェックが流行したのはいうまでもない。なお、のちに私が心理ゲームや脳内メーカーが流行ったときに「根拠がない、くだらない」と斬って捨てていたのはこのときの恥ずかしさゆえである。
 この局アナがパーソナリティーをやっていた「クンちゃんのなんでもナイト」も聞いてたっけ。


コロコロ付録の下敷きを改造したフロッピーディスクケース

 私がPC-88を買ったのは高2のときだが、中学時代にはすでに5インチFDを所有していた。別にバラで買ったわけではなく最初から10枚入りの箱で買っていたのでこんなケースを作る必要はなかったし、これにFDを入れて持ち歩いた記憶もない。
 これを作った時期は不明だが、角を折ってガムテープで止めているだけでなく糸で縫いあわせており、なかなかの出来だ。下のケース部分と上のフタ部分の大きさが微妙に違っており、きれいに収まる構造になっている。
 貼ってあるシールは友人の家の店のもの。反対側にはIBM JXのシールも貼られている。

 久しぶりに開けてみたところ、FDは入っていなかった。が、ラベルや書き込み禁止のプロテクトシールなどが大量に入っていた。この手のアイテムは、小学校入学時に教科書などに名前シールを使っている子がいて羨ましく思って以来、大切に扱っているのだった。今でもDVD-RAMのラベルなどはメディアとは別に保管しており、こういうときに使ったりしている。

 智之くんが小学校に上がるときは、テプラを使えとは言わないが、おしゃれな名前シールを貼ってあげてください。
割付名人のインク

 これは別に中二病の発露というわけではない。
 私がPC-88を買った後、父が突然にブラザーのプリンター・割付名人を買ってきた。PC-98で青色申告のために使った記憶はあるが、父がPC-88でどのようなものを出力したか、まったく記憶にない。CADソフトや税金計算ソフトなんて持ってなかったしなあ。
 むろん私もほとんど使っていない。PC-8801MAはPC-98並に日本語の得意なマシンだったので、オリジナル小説を書いてプリントアウトしたものだ。あ、これは十分に中二病だな。



110306 高校時代のクリエイター魂

 私が必殺シリーズを見はじめたは中2の年。シリーズはすでに落ち目になっており連続ドラマとしては間もなく打ち切られることになるのだが、それでもこのシリーズを視聴したという経験は貴重だった。1986年放映の番外編的作品『必殺まっしぐら!』が私の必殺初体験で、お気に入りは1987年放映の正伝である『必殺仕事人V・風雲竜虎編』だ。このあたりのデータはWikipediaを参考にしており、記憶しているわけではない。

 浜松に「藝夢の店」という店がある。浜松祭りで有名な凧のミニチュアを作っていたり各種室内ゲームを販売したりしている、大都会・名古屋でもなかなか見られない洒落た店だ。小学生のとき友人に誘われてここで手品グッズを買ったことがある。スポンジ製のキューブで中に球形の穴が開いていてスポンジを「裏返す」と球になるというもので、同級生が転校するお別れ会で使った。
 高校に進学し、通学ルートにこの店が乗るようになった。そして必殺仕事人の登場人物が操る破天荒な殺しの武器を、この店ならば扱っているのではないかと考えた。表向きは大道芸人であるその人物が操るそれ──南京玉すだれを。

 果たして、みごとその店では南京玉すだれを扱っていた。ガラスケースからそれを取り出してもらい、値段を問う。確か7000円くらいだったと思うが、それを聞いて購入を断念する。もともと買うつもりはなかったのだが、とにかく予想より高すぎて残念ながら買えないという表情をする。目はしっかりと南京玉すだれの構造を追いながら。

 そして数週間後、私は成し遂げた。南京玉すだれの自作を。

  一部の糸が外れたままだ。

 材料は割り箸と釣り糸。結ぶのではなく、ライターで溶かして接合している。両端に無駄な穴が開いているのはしだれ柳をやったときに互いに保持してくれずバラバラになってしまうなどの不具合がありやり直したからである。写真ではわかりにくいが、何かのために買ってそれ以外では使い道のなかった金色の絵の具を使って金色に塗ってある。
 あまりに気に入ったので、一時は高校に持っていったほど。インターネットのないこの時代、趣味を認めてもらうにはリアル友人に見せつけるしかないわけで、若い頃にはよくある話だよな、な?
 しかし、このマイブームは長くは続かなかった。後光など割り箸の端に力がかかる技を演じると、釣り糸で組んだところが外れてしまうのだ。国旗なら問題ないが動きのない技を演じても面白くないし、その都度修理するのが面倒で熱が冷めてしまったのだ。南京玉すだれの技は日本南京玉すだれ協会のサイトに絵が載っているが、技の名称が私の知識と違っている。っていうかこの伝統芸能でルミナリエはねーだろルミナリエは。


 自作の南京玉すだれはこのまま捨てられてもおかしくなかった。だが、ここにもう一つの自作グッズが登場する。丁度よい大きさの木箱が見つかったのだ。そのおかげで南京玉すだれは実家が引越ししたあとも押入れに眠りつづけていた。
 この木箱、蓋には花の絵が描かれ、彫刻刀で少しだけ彫られている。その横には鉛筆書きで、もうひとつの花が。学校教材なのは明らかだが、私のものではない。本人は否定していたがこれは父が小中学生のときに作ったものではないかと思われる。

  まるで自作南京玉すだれを収納するために作られたかのようにジャストフィット。


 私自身が南京玉すだれを繰ることはこれ以降なかったが、高校2年の年には静岡のSUNPU博を見にいって南京玉すだれやがまの油売りを楽しんだ(この年には名古屋のデザイン博にも行っている)。さらにはそれが高じて大学進学後には大須大道町人祭を見にいき、Yone氏もよく知る私にいたるのだった。



110410 手塚治虫への傾倒

 中学に入って知り合った友人から、ブラック・ジャック全24巻を借りた。これが大学時代に部室で幾度となく読み返すことになるBJとのはじめての出会いだった(1995年に25巻が発売となり、大学生の私は大いに驚くことになる)。それで畸形嚢腫、ひいては近親相姦について興味を抱くことになるのだが、それはそれとして、私も歴史上の名作である手塚作品を所有したくなった。

手塚治虫全集 リボンの騎士(なかよし版)

 BJを持っていた友人に対抗し、いくつかの古本屋をめぐってなんとか買い揃えたのがこれ。
 なかよし版は元祖ではないがキャラも追加され、定本といっていいのではなかろうか。
 テレビアニメ('67)は再放送でも見たことがなく、これが私にとって唯一の『リボンの騎士』体験だ。

 これのせいでフタナリ性癖…いや、何でもありません。
サンデーコミックス W3

 小学館の少年サンデーではなく、秋田書店のレーベル。その作品を中学時代の私が知っていたわけではなく、単に見たことのないマンガ本のレーベルに骨董的価値を見出しただけだと思われる。かなり状態がよかった(今でも悪くない)し。
 手塚治虫の歴史的には、掲載誌が少年マガジンから少年サンデーに途中で変更になったW3事件が名高い。

 動物の姿に擬態した宇宙人より地球人のほうが活躍するストーリー展開はともかく、学校周辺の描写の古臭さには閉口した。これ、1965年の子供たちに親近感をもって受け入れられたとはとても思えないのだが。
地底国の怪人・魔法屋敷

 古本屋ではなく、デパートの催事場でおこなわれた古本フェアで買った。
 ともに1948年の作品で、若き日の藤本・安孫子少年に多大なる影響を与えた『新寶島』が1947年だからその古さは相当なものだ。
 マンガ作品としての面白さを60年後に上から目線で語るのはやめておこう。
鳥人大系

 どういう経緯でこれを買ったのかは記憶にない。1971年ごろの作品。

 ストーリーものではなく短編の連作。
 最初は鳥が人間に逆襲する話だが、やがて鳥がヒトに代わって地球の盟主になる(そのバックには鳥型宇宙人の後ろ盾があった)。しかし鳥の世界にも差別や腐敗が横行し、最終回では再度宇宙人が登場する。鳥を地球の支配者とするのは過ちだった、それにふさわしいのはゴキブリである、と。それを主張するのは、いうまでもなくゴキブリ型宇宙人であった。
 この展開にはショックを受けたものだ。


 これらの他に空気の底も買って持っていたが、誕生日プレゼントとして友人にあげてしまった。テーマが暗く、今思えばこれはプレゼントとしては不適切だったように思う。所有するのが嫌になって手放したのかもしれない。Wikipediaを読めばわかるが対象年齢の高い作品で、男女が愛しあうシーンはもちろん、近親相姦もあった。

 また、手元に残っているものはないが、図書館で手塚治虫の軌跡的な本を読み、知識だけは持っていた。近所の図書館ではなく市の中央図書館なので高校時代だ。それで後に鉄腕アトム(地上最大のロボット編や青騎士編などの主要なエピソード)ジャングル大帝を読んだのだが、世間的評価の高さほどの面白さは感じられなかった。
 これは残念なことだが、マンガをゲームに置き換えれば納得はできる。進化の過程を身をもって体験するのと、十分な質と量がある中で生まれ育ったのでは評価に差があるのは当然のことだ。

 BJはいつか自分で買うことを心に誓っていたが、中学時代だけでなく大学時代にも十回二十回と読んだので結局買わずじまいだった。とはいえ、国会図書館に単行本未収録話を読みにいったりした。また、手塚治虫は、私がフィギュアを買ったほとんど唯一の作家である(Yone氏から貰ったわたおにやToHeartのフィギュアもあるけど)



110522 あきひとくん6さい

 私が二十歳のときに実家が引越をし、幼いころの思い出の品はほとんど捨ててしまった。スーパーカーピンクレディーヤッタードジラ時計をよく描いていたお絵描き帳も今はもうない(捨てる直前に目を通しているのでそれなりによく憶えている)
 存在しないものについて長語りしてもしても仕方がないのでほとんど唯一と言っていい、今でも残っているアイテムを展示していこう。

保育園の最高学年の3月、つまり小学校進学直前に作ったゴミ箱


 長い紙に絵を描いて、筒状にしてゴミ箱に被せ、その上にビニールの筒をはめて汚れ防止になっている構造。ゴミ箱という実用的なものゆえに捨てなかったのだろう。
 お絵描き帳とは違い常に身近にあったので、これに関するエピソードはよく憶えている。

 6歳のあきひと少年は、ゴミ箱の側面に飾る絵を描くにあたり、キャンバスを長方形の紙ではなく、エンドレスな世界とみなした。ひとつの横長モデルではなく、横から見た自然の風景を描いたのはそのためである。
 木には洞と蜂の巣。洞はリスを描きたたったのだが技術的にもスペース的にも描くことができなかった。蜂の巣は隣の群れに繋がる。巣の前で部下の帰還りを待つ女王蜂(口紅で女性らしさを示している。その一方で目にはその手のマンガ的表現はない)、槍を持って女王蜂を守る兵士、そして蜜を持って帰る部下。今の私にはこれほどのストーリー性のある絵は描けないであろう。働き蜂はどこから蜜を取ってきたかというと、もちろん花畑だ。子供が絵に描く花といえばチューリップなのはお約束。立体的な柵にも満足がいっている。蝶はいい出来だがてんとう虫はできた直後から後悔していた。そして柵の脇にある小さな花、これが当時の私のこだわりで、つまりは「名もなき草花」である。
 …と、ここまでは意図したとおりの絵を描くことができたのだが、スペースが余ってしまった。ネタが尽きたのか、描きたいネタはあるが子供ゆえ描けなかったのか、そこまでは憶えていないが、結局描いたのはさっき描いたばかりのチューリップ。それも最初の木と比類するほど巨大なものになってしまった。
 画竜点睛を欠くとはこのことだが、とにかく、紙の切れ目が作品の切れ目にならない、連続的な作品を作ることができ、あきひと少年は大いにこれを気に入ったのだった。
 春に小学校に上がったばかりの智之くんの家も、彼が成長しガールフレンドを連れてくるようになるまで現状を保全しておくと…彼に恨まれるかもしれない。


 次は「ひろひとくん3さい」をお届けします(嘘)


110727 理系人間の萌芽

 保育園のころ、『こどもとしぜん』という雑誌を毎月購入していた。乾電池が豆電球を照らす仕組みを学んだり、雪の結晶のかたちに心踊らせたりしたものだった。その一方で海の生物──特にイソギンチャクとウツボ──に恐怖を抱いたりもした。物理や化学は好きだが生物は好きでない理系人間の原型は、小学校進学前にできあがっていたのだった。

顕微鏡

 年に2回くらいだろうか。頻繁というほど頻繁ではなく、しかし間違いなく長期間にわたって複数回、あるチラシが入ってきていた。デパートではなく公共の施設の一角を使った販売会で、倒産した会社から流れてきたらしい多種雑多な商品が安価で売られるというもの。
 そこで見つけ、珍しくおねだりして買ってもらったのがこの顕微鏡。クリスマスにも誕生日にもプレゼントを貰ったことのない私が物を買ってもらうのは本当に珍しいことだった(とはいえMSXという超高価なオモチャを買ってもらっているのだからここで文句を言ってはバチが当たるだろう)
 何歳のときにこれを買ってもらったのかは覚えていないが、当時の私は顕微鏡を理解していたとは言いがたい。ブドウの皮をセットして覗き見て、紫色がボンヤリ見えたことくらいしか記憶にないのだった。

 今はTVに接続できるマイクロスコープなんてのもあっていい時代になったものだ。でもボクとしては、歯ブラシやシャワーヘッドのような形状で手に持ってお肌をチェックするものよりも、スタンド付きで机の上に置いてさまざまなものを大きく見るタイプのもののほうがいいなあ。USBでPCに接続する機種だと画像を保存できたりしてより便利だが、お子様にPCを触れさせるのはまだ早い等の教育方針もあるだろうから、こればかりはなんとも言えない。
5年の学習の付録の正12面体地球儀

 私が学研の学習雑誌を購入したのは1年と5年だったと思う。発光ダイオード・ファインセラミック・光ファイバー・形状記憶合金・紫水晶の新材料セット(2chによると意外にも「科学」ではなく「学習」の付録だったようだ)とそれを紹介した本誌中のマンガは特に印象深く、のちに大学進学時に工学部の材料機能工学科を志望することになるのだった。

 その新材料セットも今はもうなく、残っているのはこの正12面体の地球儀のみ。右にあるのは大きさ比較用の10円玉。地球儀としての面白さ以上に正12面体としての面白さゆえに保存していたことは言うまでもない。ググるとペーパークラフトの展開図が見つかるのでお子様と一緒に作ってみるといいだろう。

 ピアノ型のケースの中にICチップとスピーカーが入っていてジングルベルを奏でるおもちゃも永久保存に値すると当時の私は息巻いていたが、ICが狂ってキュピーと変な電子音が止まらなくなったので、電池を抜いて捨ててしまった。
中3の技術の時間に作ったインターホン

 私は研究者型ではなくエンジニア型。役に立つものが好きなのだ。そんな私がこれを捨てるわけがない──結局作って学内で何度か動作確認したあと家ではまったく使わず、改造することもなく20年後の今回捨てることになったわけだが。
 これについては出番がなかったわけだが、以前はYone氏に貰ったマザーボードのスイッチをずっと保存していて10年後に役立てることができたという例もある。
 もちろん役に立つものばかりでなく、「何でこんなの大事に保存してたんだ」と首を傾げたくなってくるようなアイテムもある。

妙に歪んでいる瓶はもともと何が入っていたのか。
中の紙は父のPC-1500+プロッタプリンタで出力したもの。

これはジュースの瓶? 経時変化で変形?
中にあるのは南京玉すだれの項で登場した金色の絵の具。



110916 記録マニア

 大学を卒業し会社勤めになるまでの期間は大忙し。タイに卒業旅行に行って、アパートから退去。4月からの勤務地が新製品立ち上がりの都合で急に本社からいなかの工場に変更になったので持っていく家具を最低限のものに厳選したりもした。そんなこんなで大学時代のアイテムは実家の自分の部屋に置きっぱなし。今回、15年ぶりに棚(大学時代に粗大ゴミ置き場から拾ったテレビ台)の中を整理してみたところ、いろいろ発掘できた。

大学時代の書類

 電気、ガス、電話、新聞、学費などの領収書が束になっていた。また、この6年間の記録は紙に書き記してもあった。大学卒業直後に作成したのだろう。

 研究室の端末で楽しんでいた参加型の個人ホームページ、荒熊教(今はここの中の人からの手紙もあった。
 すっかり忘れていた女の子からの手紙が出てきたりもして、恥ずかしさにのたうちまわったりもしたものだ。
大学時代の家計簿日記帳

 大学入学時からほぼ毎日つけていた。起床時刻に食事の内容に買い物と残金、そして一言の日記。
 あまりにも恥ずかしいので縮小画像で勘弁してください。まあ、好きでアップしているわけだけど。

 これは大学4年の名大祭前後の日記。毎朝食べてる「チキナ」はチキンナゲットの略だが、「パフィ」は今となっては何のことなのかわからない。ケロッグなどのシリアルだろうか。
 この年はYone氏やイトユカ嬢とともに韓国語を受講した。そこで知り合った法学部の女の子といい感じになるも彼女は彼氏がいるどころか卒業後に結婚することになっていてショックを受けたことが書かれている。日記の中に「恋」という字が登場するのは6年間の大学生活でここのみ。
 この前の週にはイトユカ嬢とデートもしている(テーマはやはり韓国で、「月はどっちに出ている」を見たりした。渡辺かYone氏を誘おうと思っていたのだが偶然その前に彼女を見かけたので誘ったらOKだった)。うーん、青春だねえ。
献血データ

 もちろん献血手帳も捨てずにずっと取ってある。たぶん就職後、より正確にはニノミーからPC-98互換機のWindows98SEマシンをもらいYone氏から自作機のマザーボードなどをもらった後のことだと思うが、それらのデータをExcelに入力した。
 私がはじめて献血したのは高校2年の秋で、その後2か月おきに献血に出かけていたが受験勉強のために一時中断。大学に進学し、自己紹介で「趣味は献血です」と言ったことからYone氏と親しくなり、2週間間隔で献血できる成分献血に頻繁に行くことになった…ということが、これを読めば手に取るように理解できるわけだ。
 そしてそれは現在の会社の定期健康診断の結果にまで繋がっている。むろん体重管理などには役に立っていないが。


 こうやってデータをまとめておくのが好きだからこそ、このホームページも10年以上続いているのだろう。そんな私が持っているアレをリスト化して晒したくなるのは無理もないことだよなあ。



111218 テレビゲームのない時代・1

 子供の頃は共同の子供部屋すらなかった(兄妹共用の子供部屋はナシが当然?)のでオモチャは頻繁に捨てていくしかなかった。引越しした時も処分した。そんな試練に耐え、今なお残っている(押入の奥に突っ込んであるだけだけど)オモチャにはどんなものがあるのだろうか。

コマ

 右上の大きいのは父が回してくれたことがあるが、自分では回せていない。これに限らずベーゴマもやったことがないし、紐を巻き付けるタイプのコマ(投げゴマというらしい)は私は回せない。
 中央のはステージ上で回すと周囲に置いた円盤が自転しながら公転するという遊星歯車のようなもの。左のは軸の先端が尖っておらず全体が球状になっており、勢いよく回すと逆立ちする。そこにどんな物理的挙動が起こっているのかは知らない。
 写真の中にコメントを記入したのが自分で買ったもの。超合金ロボットの盾、モーターをばらしたときの軸などもある。どれもこれも気持ちよく回ってくれる。
ヨーヨー

 左の大きいのはコマと同様、物心つく前からあったもの。上下させることはできるが手のひらに収まるわけではないので遊んでいてあまり面白くない。
 右下のやつは駄菓子屋のくじで当たったんだっけな。右上のやつはコカコーラの景品。「犬の散歩」や空中技などは一切できない。
けん玉

 けん先で玉を受けたのは一度しかない。むろん、振りけんではなく止めけんでだ。世界一周、やってみたかったな。
 皿で受けるのはそれなりにできるので、「もしもしかめよ」くらいならできたかも。サッカーボールのリフティングと同様、4〜5回程度だろうけど。
名称不明

 遊び方はわかるのだが、正しい名前がわからないという謎のオモチャ。YouTubeに貼ったので誰かコメントしてくれないかな。
竹とんぼ

 軸がなくなってしまっている。購入品ではなく、竹を削って作ってもらったものだ──父ではなく、叔父に。ふむ、私も、智之くんの記憶に残ることはできるだろうか。
銀玉鉄砲

 握ってみたらあまりにも小さくて、自分がすでにこれを扱う子を持つ親の年代になってしまったのだなあと実感。
 むろん、銀玉はない。

 次回はもう少しだけ時代が進み、小学生時代のミニカーや消しゴムを紹介することにしよう。



120805 テレビゲームのない時代とは

 前回予告したミニカーや消しゴムは写真が失われたのでしばらくお待ち下さい。
 我が子供時代を、架空の息子・智仁と比較してみた。

年齢学年出来事出来事
0歳 1972年9月章仁、誕生2004年12月
12月
智仁、誕生
ニンテンドーDS、発売
1歳 1973年  2005年 XBOX360、発売
2歳 1974年  2006年4月
 
アニメドラえもん、リニューアル
PS3・Wii、発売
3歳 1975年  2007年  
4歳 1976年  2008年3月幼稚園入園前に沖縄旅行
5歳 1977年  2009年  
6歳 1978年 スペースインベーダー稼働(大ブームは翌年)2010年  
7歳小11979年4月テレ朝版ドラえもん、放映開始2011年2月
9月
ニンテンドー3DS、発売
藤子・F・不二雄ミュージアム、開館
8歳小21980年 
12月
 
お年玉で買ったのは野球盤?
ドラえもんの単行本を買おうと本屋に行くと、持ってる本と読んだことのある本しかなかった
そこで、仕方なくコロコロを買う(1月号で、ゲームセンターあらしで炎のコマが初登場する回)
2012年  
9歳小31981年 
 
お年玉で買ったのは日本特急旅行ゲーム?
PC-6001、発売
2013年  
10歳小41982年 お年玉で買ったのはタワーリングレスキュー?2014年  
11歳小51983年 
7月
 
お年玉で買ったのはペイントローラー?
ATARI2800・SG-1000・ファミコン、発売
MSX、発売
2015年  
12歳小61984年 

 
お年玉で買ったのはATARI2800?
クラスメイトが遠足にベーマガ別冊付録のスーパーソフトマガジンを持ってくる
パソコンショップで月遅れのベーマガ(100円)を買いはじめる
2016年  
13歳中11985年1月
PC-8801mk2SR、発売
日本楽器に勤めていた叔父の紹介でYIS-503を買ってもらう
2017年  
14歳中21986年  2018年  
15歳中31987年 はじめて新品で買ったソフトはグラディウス2。2019年  
16歳高11988年  2020年  
17歳高21989年  2021年  
18歳高31990年 
11月
PC-88MAを買ってもらう
スーパーファミコン、発売
2022年  
19歳大11991年4月大学入学。サークル案内にSFCありと書かれていたので基礎研に入る2023年  
20歳大21992年  2024年  


 こうやって年表をまとめてみると、私がMSXを購入したのが中1のときだということが判明した。もっと早く買っていたと思い込んでいたのだが、それはやはり私の人生がパソコンやゲーム機とともにあった時期のほうがずっと長かったからであろう。
 MSXが1983年に発売されたという事実は以前から把握できていたが、我が家にそれが来たのはその年でも翌年でもなく2年後だった。年表に書いたように日本楽器の叔父つながりで社員価格?で買ったのだが、その際、従兄がソフトやハードを検討していたMSXマガジン(ヤマハのYISではなくナショナルのキングコングにマルが付いていた)も貰っており、それにネバーエンディングストーリー(1985年日本公開)や寺山修二のさらば箱舟(1984年公開)といった映画が紹介されていたのを思い出したのだ。ちなみにその従兄はMSXは買わず、のちにPC-8801mk2(モデル10)を買った。

 それはそれとして、今回はテレビゲーム以前のおもちゃについて注目してみよう。
 クリスマスにおもちゃを買ってもらうという習慣のなかった私は、おもちゃ屋の新聞広告を集めて保存し、お年玉をもらった後で買いに連れて行ってもらうというのが正月のパターンだった。それぞれのおもちゃを買った年について確証はないが、そのおもちゃを選んだ理由についてはうっすらと憶えている。すなわち、

野球盤これ以前のお年玉で何を買っていたのかは記憶にない。
この家に生まれて数年、自分の家がクリスマスプレゼントのない家なのだと認識した私は思い切ってクリスマスプレゼントをねだった。
そこで買ってもらった、唯一のクリスマスおもちゃ。ただし翌年はお年玉はなかった。
個人経営の小売店が複数入っているセンターの中おもちゃ屋だったので品揃えが乏しく、特に野球盤がほしかったわけではない。
日本特急旅行ゲーム従兄と一緒におもちゃ屋に行く。彼が億万長者ゲームを買ったのに対し、同じタカラのボードゲームでお勉強になるものを選択。
今でも実家にある。しかも押入の奥ではなくいつでも取り出せる特等席に。
タワーリングレスキューはじめて電子ゲームを買うにあたり、人命救助(笑)のゲームを選択。
また、「学研のゲームウォッチは防水仕様」という都市伝説が私の周囲にあった。
ペイントローラーゲームウォッチではなく電子ゲームを買うにあたり、妹と一緒に遊べる対戦型のものを選択。
音が馬鹿でかいのでスピーカーにガムテープを貼った。

という次第である。我ながらいい子ちゃんな理由だなー。

 現在と当時はあまりにも時代が異なる。架空の息子・智仁(今年小2)がポケモンをやりたい、ゲーム機が欲しいと言ってきたら。父親である私はどう対応したらよいのだろうか。



121021 テレビゲームのない時代・2

 あらためてカー消しなどの写真を撮り直した。


カー消し、2個。下に四角い穴が開いていて、小さなカー消しを入れることができる。
あとジープのようなオフロードカーを「ルパンバギー」と呼んで愛用していたのだが、いつの間にかなくなっていた。

カー消しでないクルマ。左は4個の車輪ではなく2個のコンダラ状のベアリングが下に入っており、コースを走らせるやつ。父が友人からもらってきた。
右は駄菓子屋で当てた。トミカなどごく一般的に「ミニカー」と呼ばれる玩具は持っていなかった。

固有名詞は不明だが、ヤマトなどの宇宙戦艦。

ヘンな消しゴム。アスリートと、大工道具。

分解できるサッカーボール。もう一色あってストライプにしたりしてたのだが1個しか見つからなかった。正12面体の地球儀と同じく、これは永久保存に値した。

 日本特急旅行ゲーム。新幹線は東海道・山陽新幹線しかない。

 キン消しは1個か2個なら持っていたかもしれないが収集はしておらず保存もしていない。ウルトラマンや怪獣の消しゴムはいくつか持っていて、高校生くらいかな、怪獣の一つがガイガンであることを調べあげたこともあったが、今回は現物を見つけだすことができなかった。
 電子ゲームは年下のイトコにあげてしまってすでにない。

 架空の息子が小学2年生にもなると、玩具も増えてくることだろう。それらをどう納得させて処分させるか。これは想像では片付かない問題だ。



121202 カセットテープに引導を

 すでにカセットテープを再生する装置はアパートにも実家にもない。それでもカセットテープは残っている。パソコン(当然、ここではMSXを意味する)用のテープは実家の自分の部屋に、そして音楽テープはアパートに。後者はかつて独身寮やアパートで稀に聞いていたのだが、ワイドテレビを買ったときにテレビ台の上が狭くなったのでMDラジカセを処分してしまったのだ。その際、MD(10枚パックを1セット買っただけだった)はバッサリと捨ててしまったが、カセットテープは捨てられないのだった。

ブラオニのデータ

 今でもブラオニシリーズ第3弾、ザ・ムーンストーンの発売を待ち続けている人は少なくないだろう。私もその中の一人で、MSX版(第2弾はファイヤークリスタルではなくブラオニ2というタイトルだった)のセーブデータを持っている。
 レーベルのイラストはブラオニのマニュアルからの模写だったと思う。ブラオニのロゴ、BPSのロゴも含めて完璧な出来だ。実際はOの中の白はグラデーションなのだが、サインペンではそこまで表現できない。
 ちなみにブラオニの「イロイッカイズツ」もファイヤークリスタルの「KEIMATOBI! KEIMATOBI!」も自力で解いた。しかし壁も表示されないブラオニのブラックタワーは攻略できず、適当に歩きまわって偶然ブラックオニキスを手に入れたにすぎないのだった。
 なお、セーブした位置は憶えていないので、万が一ムーンストーンが出たとしてもセーブデータを呼び出せない可能性が大である。…って、その前に今のテレビとMSXとデータレコーダを接続することに悩んだほうがいいぞ。
はーりぃふぉっくす 雪の魔王編

 「BLOAD"CAS:",R」と書いてあるので、セーブデータだけではなくゲームソフトをダビングしたものだろう。
 このマリさんはMSX版のCGではなく、ベーマガに載っていた広告からの模写。私の画力でマリさんの繊細さを表現できるはずもなく、また女の子の絵を描くことなんてほとんどなかったものだから、書いてて非常に恥ずかしかったことを憶えている。テグザーやブラスティならよく描いてたんだけどな。
リザード

 RPGを数多く出していたクリスタルソフト、その中でも特にシステムがシンプルな作品であるリザード。
 レーベルには特に何も書いていなかったので背面のみ紹介する。これも「RUN"CAS:",R」と書いてある。
 プログラムの後にはセーブデータが入っていると思われるが、いくらリモート端子を持っているデータレコーダでも、一度セーブデータを読み込んだ後に巻き戻しボタンを押してセーブデータの先頭で巻き戻しが自動で止まってくれることはなかったはずだ。どうやってセーブデータを保存していたっけな。A面にプログラム、B面にセーブデータというやり方だったかもしれない。
10分テープ10個セット

 緑色の15分テープは個別に買ったが、ベーマガのプログラムを入力するようになったのであらためて10個セットを買った。木の箱は中学の技術の時間に作ったもので、コナミのシール(パッケージの封をしていたもの)が貼られている。
 その背に書かれているものは以下のとおり。
BALL&HOLEここの写真の中でステージが「カゲ」となっている玉転がしゲームがそれ。
THE RETURN OF RAINBOWこちらにスクリーンショットあり、またこちらにオリジナルであるPC-88版のスクリーンショットあり。
SCREEN2用キャラクター作成ツール MOKOいわゆるSCREEN1.5でのキャラが作れるツール。
アニメキャラクタ用ツール GT.2詳細不明
スプライトエディター詳細不明
MTK BLACK-JACK 大貧民ベーマガではなく他の雑誌もしくはムックに載ってたプログラム。MTKは「モビルスーツてめえこのやろう」の略、というところまでわかったが内容を思い出せない。
マシン語モニターMSXをデモ展示してた家電店にあったMSXマガジンに載ってたのを見て、店のおじさんに頼み込んで雑誌を貸してもらった。当時はコンビニなんて便利なものはなかったので自営業の友人の家でプログラムのページをコピーさせてもらって雑誌を返却した。マシン語のプログラムを入力することは一度もなかったが、POKE文やPEEK文でアドレス上のデータを直接アクセスすることくらいは理解できるようになった。
グラフィックお絵かきツールおよびそれで作ったスカイキッドのCGと、BGM。
TAPE LOADERベーマガのプログラムをひとつのカセットにたくさん入れてたもの。テープの一番最初には自作のメニュープログラムが入っており、「○○というゲームをロードするにはデータレコーダのカウンタを○○○にしろ」と表示させた。BALL&HOLEやTHE RETURN OF RAINBOWがこの中に入っておらず個別になっているのはまだ移動してなかった程度の理由だろう。
無地で内容不明 

 なお、TAPE LOADERの中には、アップルランナー(タイトルのRが気に入らなかったのでデザインを改変した)34-鶴間さん死闘編-(タイトルを「ドルアーガの塔」に改変したことはいうまでもない)、がんばれトコちゃん(動画でも利用してるが、投降プログラムなのに裏技があるのだ)などが入っていたと思う。
今なお手元にある音楽テープたち

 中学時代に友人から借りていたBeepのソノシートやゲームミュージック、高校時代に友人からダビングさせてもらった究極超人あ〜るのイメージアルバム、大学時代にレンタルCDからダビングしたユニコーンやゴダイゴのベストアルバム(貧乏性なのでベストばかり借りてた)、そして中学高校時代に聞いてたラジアメや大学時代に聞いてた渡辺美里のミュージックスクエアに中島みゆきのお時間拝借。ああ、懐かしきかな青春時代!
 写真はBeepのソノシートの音楽集。最後に女神転生が1個だけ、家庭用ゲームとして登場しているが、これもBeep…なんだよなあ。
おまけ:バールーペ

 プログラムリスト入力用。買ってもらったのか頼まずとも父が買ってきたのかは覚えていない。
 1920円は高い。と当時も思った。

 妹の部屋にはCDラジカセが残っていたと思うので、これらのPCへの取り込みをやってみようかな。USB接続で簡単に取り込める装置があることは知っているが、Webカメラやビデオキャプチャーすら気軽に買えない私がそんなものを買うわけがない。



130512 子供の成長記録を保存しよう

 何年か前の正月。親戚の家に新年の挨拶をしにいくと、DVDのビデオを見せられた。チビが数日前の紅白歌合戦のマルマルモリモリを何度も繰り返して見ているのを止めてまで再生させたそれには、チビがNHKのおかあさんといっしょに出演(?)したシーンが録画されていた。そういえばYone氏はポンキッキーズの誕生日紹介コーナーにお子様の写真を出して放映されたとか言ってたっけ。最近のお父さんはそういうことにこだわるのだな。
 その次のビデオは、かつてこのご家族が撮影した8ミリフィルムをDVD化したもの。「お見苦しいものもありますが」と従兄が恐縮しながら見せたその中には、我が父の妹でもある彼の母上が、今の彼自身よりも若い水着姿で幼い子供たちと遊んでいるシーンなどがあった。
 また、ビデオの中には幼きころの私の姿もあった。「アキちゃん(仮名)はいつも長靴をはいてたね」と彼は言う。私の家にも8ミリカメラはあったので父が撮ったビデオは何度か見ており、当時の私が長靴をよくはいていたことは知識としては持っているが、1〜2歳の幼児がどういう理由で長靴を好んでいたのか、そもそも好きで長靴をはいていたのかを憶えているはずもない。子供の頃の姿を見せられて恥ずかしく思うレベルをはるかに超えて幼すぎる自分の姿に、当の私はどのような表情をしただろうか。

 と、こんなことがあって、我が家にも埋もれているであろう8ミリフィルムを再生させたくなった。ただし帰宅した頃にはすっかり忘れていた。
 それから何度目かの帰省のとき、『オバケのQ太郎』を読んでいたら、8ミリをネタにしたお話があった。そうだ、藤子先生は映画が好きで、トキワ荘の仲間たちと西部劇を撮ったりしたと『まんが道』で語られていたっけ。
 ここでようやく8ミリフィルムをサルベージしようとしていたことを思い出し、また、カセットテープも同じく再生させることにしたのだった。


8ミリカメラ

 型式でググってみてもあまり面白い結果は得られなかった。オークションでも安いし。型式「P400」は1972年発売らしいので、はじめての子供である私のために買ったのだろう。ありがたいことである。
 小中学生時代の私がこれで撮影のまね事をさせてもらったという記憶はない。

 そして見つけた8ミリフィルム! これを富士フイルムの販売店に持っていってDVDにしてもらおう。
 なに? タイトルなどを付与することができるって? 何が写っているのかわらないのにタイトルなんて付けられないよ。できあがったら連絡してくれ。
 そして数日後。カメラ屋から連絡が来る。曰く、「このフィルムは現像されておらず、なにも録画されていません」。な、なんだってー! と驚く前に、現像という言葉が死語すぎてピンとこなかったのが正直なところ。

 思えば我が家にはカメラはあったが映写機はなく、録画したフィルムを見るときはこの親戚の家から借りていた。だから我が家で撮影された現像済みのフィルムはすべて親戚の家に渡っていったのだろう。
 家に残っていれば取り出したいが、親戚の家にあるものをダビングしたいとは思わなかった。これで8ミリフィルムのサルベージは終わりだ。


 

170604 我が家初のプリンター

 私がPC-88を買ったのは高校3年のとき。すでにPC-98にもFM音源が搭載され、ホビーユースのメインストリームが98になってから。
 小学生の頃から毎日のように通っていたパソコンショップのデモ機が長いこと88SRで、ずっと憧れていたのだ。98持ってる友人、いなかったしね。
 このショップに珍しく中古の88FHが並んでいて、テレビにもなるディスプレイ・PC-TV351と一緒に父に買ってもらった。父を説得した文句は忘れた。
 だが、わずかその数日後、ショップに88MAが並び、無性にこれがほしくなる。店長にお願いし、プラス2万円で買ったばかりのFHとMAを交換してもらった。サウンドボード2搭載のMAは、夢幻戦士ヴァリス2のデモなどで実力を発揮することになる。これを貸してくれた友人はSB2を持っていなかったので、出力されるPCMサウンドをカセットテープに収録して渡したものだ。

 それはそれとして、多分に父の財布から賄われた88は仕事にも使われた。といっても溶接業の父が本機でCADをしたということはない。伝票をまとめ、青色申告をしただけだ。今となっては青色申告をするためのソフトが何だったのかも不明。青色申告のために父が買ってきたプリンターがブラザー割付名人・M-1024II P/X(1986年発売、定価 99,800円)。連続紙をうまくセットできず、出力結果がすぐナナメってしまった。

 88MAとともに20年以上我が部屋の押し入れに眠りつづけていたが、このたび、昨年亡くなった母の弟の家を取り壊すことになり、せっかくなのでプリンターも処分してもらおうとした次第である。
 え? 88MA? …これまでも、これからも、出番はないだろうけどまだ捨てませんよ。



 

190707 壊れかけのRadio

 1991年。大学1年の夏休み。北海道出身のワタナベに誘われ、北海道を旅することになった。
 フェリーや鉄道での移動の友として買ったのが携帯ラジオだった。全国8エリアの周波数がプリセットされており、北海道でもチューニングせず受信できるナイスなやつだ。
 この年の大相撲7月場所は琴富士が平幕優勝する波乱の展開だった。フェリーでは備え付けのテレビで、また、ワタナベと同行中はともかく彼と別れてからの一人旅のときはラジオで相撲に熱中していたのを憶えている。

 2007年。T社で働いていた頃、琴光喜がスロー出世で大関昇進した。彼は岡崎出身で、彼の父親がT社相撲部の監督(元なのか当時監督だったのかは不明)ということで社内で話題になった。
 私が実際に大相撲を見に行くようになったのは2009年から(2008年は中国出張の年だったので)なのだが、それにはT社における雑談が元になっていたのだ。あと当時見ていたニュース掲示板「街の灯」に好角家がいたため。
 大相撲を見に行く際はこのラジオをポケットに忍ばせ、ラジオ中継を聞きながら目の前の相撲を見るというスタイルだった。

 野球賭博問題や八百長問題で相撲人気が地に落ちたときは容易にチケットを予約することができたが、相撲人気が再燃してからはなかなかチケットが取れなかった。
 今年は数年ぶりに相撲を見に行くが、もうこのラジオはない。テレビ中継をスマホで聞きながら観戦しようかな。


 

220731 大人になっても使うことのできる、技術の時間に作った逸品

 中学の技術の時間ではインターホンのほかハンダごても作った。柄の部分は自分で削りニスを塗ってある。授業でニスを塗った後もペーパーで磨きつづけたのでニスの光沢はほとんど無い。

 モノは気に入っているが電気関係は大の苦手で、独身寮時代にDirect Pad Proに挑戦するまでこいつに出番はなかった。
 しばらくはこのハンダごてを使っていたが、先端が丸くなって細かい作業に不向きなので2006年に新しいハンダごてを購入した。何を作っていた頃にハンダごての更新を決めたのか、当時の記事には書かれていなかった。
 その後、2009年にとうとう中学時代に支給されたハンダを使い切った。タイミング的にはKVM切替器を購入した頃。2台のPCの間でキーボードとビデオとマウスを切り替えることができたがスピーカーを切り替えることができず、自分で音声の切替機能を作ったんだっけ。
 そういうときに買った新しいハンダは音響部品用。

ハンダごて&ハンダ作ったことすら忘れていた完成動画Yoneさんからいただいた回路(未実装)
あとハンダ吸取線も買った。当時はこれの記事も書いたものだが。今見てもさっぱりわからん。

 中学時代に作ったハンダごては今なお新しいハンダごてと同じ場所に保管してある。さすがに空になったハンダの容器は捨てたけど。
 智之くんも技術の時間に作ったUSB充電できる手回しラジオを大切に使ってほしい。それは父親やまだ見ぬきみの息子との話題となることだろう。


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